伝説のホテル?

2009年11月3日 日常
伝説のホテル?
 皆さんはこのホテルをご存知でしょうか。
2年くらい前に“伝説のホテル”ネット画面の言葉の響きに誘われ、片隅をクリックして開いたサイトにはとんでもない構想が語られていました。以来これを仕掛けている鶴岡秀子という女性に注目して来ました。
いよいよ、そのホテル “THE LEGND HOTEL”が千葉に2011年オープンします。
そのホテルを紹介した動画を見て下さいね。

http://www.youtube.com/v/Q2162mwX4DQ&hl=ja&fs=1

以下に LEGND HOTEL WEBサイトから引用させて頂きます。

すべての制約を取り払って、自分が何をしているときが、一番ワクワクするだろう…
経営コンサルティングの仕事で多忙を極めていたある日、私は自分に問いかけました。
すると、今、思い返しても不思議なのですが、「ホテルがやりたい!」という気持ちがわき起こりました。
それから、ホテルで働いたこともない私が「ホテルをやる」と決意して、一歩一歩、どのように前に進んでいったのか、お話したいと思います。

7つの教え

最初は、自分が作りたいホテルがなかなかイメージできずにいました。
そんなとき、高知県に稼働率が100%近いホテルがあることを知って、早速、電話をかけました。
「いずれ、ホテルをやりたい者ですが、お話を伺いたいのです」。
今にして思えば、ずいぶんと怪しい人間です。ところが、相手のオーナーは快くOKしてくれました。
そして、実際にお伺いすると、すべてのタイプのお部屋を見せてくれ、バックヤードまで案内してくださいました。
帰りの飛行機の中で、私は再び自分に問いかけました。
私は、儲かるホテルがやりたいのだろうか、それとも、効率的なホテルがやりたいのだろうか…?
私はあえて、一番非効率なこと。もっともっとお客様と触れ合える時間が長いホテル。
泊まるだけで世界のためになるホテル。そんなホテルをやりたいと思いました。
すると、急に頭の中で、「伝説のホテル」という言葉が浮かびました。
伝説によって運営されているホテルなら、私も泊まってみたい。でも、どんな伝説?
私は、メモ帳とペンを取り出し、自分で自分に、「伝説のホテルって何?」と、聞き返しました。
そして、きっと一つか二つしか出ないと思いながら書き出すと、生き生き働くホテルスタッフの姿、 楽しそうに笑顔でくつろぐお客様の姿がありありとイメージでき、 いくつもの『伝説のホテル』の行動指針が浮かび上がったのです。
数えてみると7つあったので、「7つの教え」とタイトルをつけました。
もう一度読み直すと、とても自分で描いたとは思えないような、心に響く言葉が書いてありました。
そして、ああ、自分はこんな風に生きていきたいと思っていたんだ…と、感じました。
「7つの教え」を体現したい人が働いていて、賛同する人が支援して、 共感する人が泊りに来るとしたら、本当に伝説のホテルになるに違いない。 そう確信したのです。 
鶴岡秀子

彼女はホテル経営の経験はまったく無いのですが、この「7つの教え」だけをを基に仲間を集め、土地を提供して貰い、資金を募ることに成功したのです。この不景気で今後この事業が成功裏に終わるかは判りませんが、実際にここまで進んできたことが奇跡だと思えます。
理性を働かせば、こんな事業が成り立たないことは容易に想像できます。しかし、彼女は自分の直感を信じて「泊まるだけで世界のためになるホテルをつくりたい」という想いだけでその伝説を実現しようとしています。
この話に刺激され、私も密かに“トップストーン ランド”構想を抱き始めたのでした。尚、トップストーンランドは幾ら金の掛かる施設か創造もつきませんが….。そのイメージは1冊ノートの2ページにへたくそな絵に書かれています。
伝説のホテル泊まってみたい!!!

わが意を得たり

2009年10月30日 日常
わが意を得たり
わが意を得たり
 行き詰まったとき、本にその答えを求めようとします。壁の向こうには何かあるのですね。
 最近、読んだ本で感銘を受けた本を紹介しましょう。
天外伺郎 著“非常識経営の夜明け”というタイトルいの本である。
天外さんは、ソニーでCD,ロボット犬“アイボ”を開発した立役者である。
 今経済は、かつて体験したことのない危険な領域に入ってしまっています。高学歴の人々がITを駆使し、高度な経済工学理論に基づいた取引を行っていてもこの事態は起きてしまいました。
彼の本には、右上の図が載っています。経済学は後追いでしかないという。
先を走る人は、現場のドロドロした中にタオを発見し「こうやればうまくいきそうだぞ!」という手法を実践に移す(古い脳を活性化させる)。それが、ひらめきであり、直感である。しかし、経営学者は成功者の複数の共通点を抽出し、体系化する(新しい脳を活性化させる)。その中にはタオの痕跡はあるが生々しいタオは肌では感じていない。そして、現在多くの企業が新皮質的な経営をしていることを指摘している。
 では、どうしたらいいか?彼は言う。
「燃える集団」作りをすることである。チームが誰にもコントロールされずに、自立的に進むべき方向を決定できる状態にあること。部下を徹底的に受容し、信頼し、自律的な動きにまかせて指示・命令をしないマネジメントスタイルを「長老型マネジメント」と呼んでいる。人間なら誰しも潜在的に持っている、すさまじい能力を引き出し、活用するのである。このような状況下の精神状態のことを「フロー」と彼は呼ぶ。
そして、彼はさらにその理想を以下のように考えている。
1.企業経営の最も大切なことは、まず自分が楽しいこと。次に仲間やお客さんが楽しいこと。人を喜ばせること。本質的に楽しいことだ。
2.意味のない自己満足や優越感、上辺だけのかっこつけ、虚栄心、業界の評判などの見せ掛けの表面的な楽しさと、心の本当の楽しさを混同しないこと。
3.「ちょっとアホ!」に徹して遊び心、いたずら魂を発揮することが大切。
4.「正しいか、正しくないか」「良いかわるいか」「~するべきか、~しないべきか」などの常識的な基準は「ちょっとアホ!」の天敵。
5.自ら賢明に努力し、反省し、根性を持って頑張り、他にもそれを強要することは最悪。いい結果は生まれない。
6.和気あいあいとダラダラ仕事をやったのでは本物の楽しさは得られない。知恵を出し切り、工夫しまくりどんなアホなことでも徹底的に没頭してやりきる。
7.自分に対しても、上司や部下に対しても、お客さんに対しても「正直」であること。
8.社員に理念を徹底しなければいけない。わかりやすく簡単なことばで繰り返し。
9.会社の本当の成長は、規模が大きくなることではない。仲間が楽しく、お客さんが楽しく、会社に関係する人々がより楽しく、なるような会社にすることだ。
10.会社にとって最も大切なことは、社員一人一人の人間的成長。
11.社員の採用基準は、まず「いい奴」かどうか、次に「やってやるで」と思っているかどうか、最後に能力である。
12.「現状分析して、問題を見つけ出し、反省し、解決へ向かう」という従来の仕事の進め方は、あら捜しをして文句をつける拷問を誘う。「楽しくないから反省は一切禁止」「予算管理や目標進捗状況の把握はゲーム感覚で」
13.精密な計数管理をし、詳しく分析して現状把握したところで、やたら忙しくなるばかりで、売り上げが増えるわけではない。むしろ経理処理は徹底的に手を抜いて、昔ながらの「どんぶり勘定」戻せば、社員は暇になり楽しいことを企画するようになる。そのほうが売り上げが上がる。
14.倒産の危機や病気は「気づき」へつながるありがたい出来事だ。
15.学ぶ作業は、知り、納得し、行動し、他人に影響を与えてようやく完結する。

私が組織を纏める方法の、指針としていきたいと思える示唆を多く提供して貰い、一筋の光明が見えた思いのする書物であった。
天外氏の講演会に出られた、現日本サッカー 代表監督の岡田氏のコメントも載せられており、サッカーのチームを創る上でも実践して見たい。

秋深し!

2009年10月16日 日常
秋深し!
 秋深し、隣はなにを する人ぞ (by 松尾芭蕉)。
今の私にぴったりの俳句ですね!
秋も深まり、野山が寂しくなり、人恋しくなり、隣人のことが気になる今日この頃です。
皆さん、お元気ですか?久しぶりにブログに帰って来ました。
 相変わらず、サッカーの遠征・練習に明け暮れています。大きなイベントのチャイルドカップが盛況に終り、ほっと一息です(Tコーチに任せてばかりで済みません)。
ところで、皆さん久ぶりに寸劇のプロデュースをしました。私こう見えても余興は大好きで、会社の演芸会ではいつも職場の企画をプロデュースしていました。自分では決して、出演しません。地区の秋祭り(駒ヶ根市東伊那栗林)3年に1度、小学校の体育館で自治会ごとの余興を神社に奉納します。前回は踊りを奉納しましたが、6年前は寸劇「桃太郎侍」を私が企画して好評を得ていました。
最近はサッカーが忙しく自治会の行事に参加できないことが多く、心苦しく思っていたところ、自治会長さんが見えて「今年は寸劇で“水戸黄門”をやりたいとまとまりましたが、企画してくれません」と言われました。正直なところ、夜はチームの練習で忙しく、演劇となると練習にも時間を割かない訳にはいかず自信が持てませんでしたが、快諾してしまいました。私の心の隅にある芸人魂、いやプロディース魂に火がついたのかもしれません。
台本はネットから調達し寸劇用にアレンジしました。それから、配役を決め練習に入りましたが、台詞が棒読みのせいか、内容がまったくのオリジナルでない為かイマイチ前回の寸劇より盛り上りません。しかし、練習後の慰労会でコミュケーションをすることによりいろいろなアイディアが出てきました。娘の名前を“のりピー”にしようとか。子供向けにスーパーマリオのルイージを登場させようとか。オナラの使用とか、さまざまな物が。
こうなればしめたもの、台詞に音楽が入れば俄然雰囲気が出できました。あるおじさんが「劇がこんなに楽しいものだとは思わなかった」言ってくれました。5時間ほどで完成した素人劇は前回の寸劇を凌駕するか?
さて、当日それぞれが志向を凝らした服装で堂々と登場。 数ある演芸の中でもピカイチに皆さん輝いていました。
それでは、下記アドレスから寸劇“水戸黄門 伊那村編 秋の松茸山騒動”をお楽しみ下さい。尚、台詞は皆さんに聞こえた方が良いだろうとの事から事前にレコーダーで録音してあります。チョット動作がずれています、悪しからず!
http://www.youtube.com/watch?v=Hg32FjTYSDc (前編)
http://www.youtube.com/watch?v=jIlUuBItFbA (後編)
今度は、サッカー版。「キャプテン翼」をクラブの子供たちでオリジナル ビデオを作るのも面白いかもしれない。いや、調子に乗るのはやめておこう!

種を蒔いてから6年!
キッズサッカーから考えること
 種まきは6年前から始まりました。

キッズ教室は現在、中央保育園(宮田村 年長・年中月1回)
桜ヶ丘幼稚園(駒ヶ根 月1回 杉本コーチ担当)の定期巡回と当クラブのキッズ教室(宮田・伊那教室 毎週)・緑ヶ丘敬愛幼稚園(伊那 毎週)を行っております。

なるべく幼い時期にボールに多く触れ、ジュニア・ユースと続けることで、知らずのうちにサッカーの基礎が身についてしまう状況を作ってしまうことを意図して始めたことでした。
お蔭様で、ここ2,3年当クラブのキッズ教室から毎年20名以上の子供を、Jrのクラスに送っています。
今の小1年は30人を超えています。
 口コミが主な宣伝源である為、毎年4月の始まりの頃は、人数が少なく今年はチームとしての練習ができるか不安でスタートします。しかし、よくしたもので3月の卒業の頃までには20名を超えています。今年は特に昨年の年中児が少なく、2名からのスタートでした。なかなか子供が増ず、悶々とた思いで練習をしていました。夏を過ぎた頃に、村内の西保育園の子供がドーンと入ってくれ、12月からは中央保育園の子が加わって、今年もJrへの橋渡しの基礎ができました。
昨年から始めた伊那のキッズは4名と低調(宣伝不足ですね)ですが、それでも楽しく来てくれる子供の為に手は抜けません。先日、伊那の年中のK君が
「コーチとサッカーやると楽しい。どこかで勉強してくるの」と泣かせることを言ってくれました。
この年代の子供たちに飽きさせず、サッカーのゲームができるように練習するには、多くのメニューと笑い話と忍耐がいります。続いていると言うことは何らかのノウハウが身についたと言う事なのでしょう。
さて、キッズから始めている効果は?問われますと。
中学まで続けると特別な資質が無くても、高校までこの地域では十分レギュラークラスでサッカーが楽しめます。生涯スポーツとしての基礎ができ大人までサッカーを楽しむ素地ができてしまいます。小学校高学年・中学から始めたプレーヤーに比べてボールタッチがはるかに柔らかく、テクニックも多く持つことができます。
当クラブのJr.ユースチームはここ2、3年Jrからの持ち上がりチームです。この年代はjr年代では何も結果は残していませんが、中3年生になると継続が効いてきてトップクラスのチームと遜色の無いサッカーができるようになってきます。結果は出ていませんが感触として感じています。種まきから、6年少しずつ芽が成長している気配をJrの成績からも感じています。この流れをJrユース・社会人・ロゼッタまで結果として出して行きたいです。




2009初ブロブ 3本編!
2009初ブロブ 3本編!
ブログご無沙汰しています。近況を3本編で報告します。
TopStone30周年目の年を迎えて
 このブログには、サッカーの情報は発信しないことにしていましたが今年から、気づきを小出しにしようかなーと思っています。
今年は、当クラブにとって大きな節目を迎えます。クラブの前身となる宮田少年サッカークラブ(1980年創立)から数えて30周年目を迎えます。創立から係わっているのは、現在クラブでは私だけですが、歴代の保護者、子供・小田切和夫さん(元マネージャー)・現高橋コーチ・その他多くの方にお世話になって現在まで脈々と受け継がれてまいりました(特にボランティア精神・善意です)。この間2002年にNPO法人化しクラブの運営形態も保護者会から変わりましたが、その基本精神は大きく変わるものではありません。法人とはいえ会社のイメージとはまったく異なります。
クラブの・一貫指導体制・継続性・コーチの専門性・ボランティア精神を融合した、NPO法人化設立の際には大きな物議を呼び、結局導入できるまでに2年かかりました。
当時、クラブ員がこれだけ増え、いろいろなカテゴリーができ宮田村を超え、駒ヶ根・伊那まで発展している姿を誰が予想できたでしょうか。高橋コーチが「この地でサッカーにより、専任が給料をもらって(現在1人です)、クラブに関わる人がこれだけ増えて、奇跡みたいに思いますよ」とたまに言ってくれます。私もそう思います。
会社を辞め、壁を越えてみてよかったと思います。壁を越えてみたら、いろいろなカテゴリーを仕掛けてくれるコーチが現れ、優秀なコーチにも恵まれ北信越や全国大会に出場できるような機会が待ち受けていました。 この間、私の性格(熱しやすく・冷めやすい めんどうくさがり)の為、様々なご迷惑をおかけしたと思いますが何とかここまで来ることができました。今、これだけクラブ員が増え、30年が過ぎクラブも新たな課題、壁が見えてきました。壁の先にあるものに期待をしつつ、そんな視点でクラブ作りを再スタートしなければならない元年となることでしょう。続く

マイペースな嫁編
異国の嫁は、マイぺースで勤めに出ています。前編にも書きましたが派遣で、辰野オリンパスにお世話になっています。職場は外国の人が多く、そのせいか気を使わず楽しく勤められている様子です。特にブラジルの某おばちゃんのおもしろさは郡を抜いていてその話をよくしてくれます。ただ、単純労働(ペンチでプラスチックの様な物を切るような仕事)・残業を毎日こなして来る為、腕、肩が腰が痛くなり、週末は私に決まってマッサージを要求してきます。顔の肌も少し荒れ、少しお疲れの様子は否めません。
派遣の労働条件が日増しに厳しくなっている中で、ご多分に漏れず先日契約に関する変更依頼が来ました。3月1日で派遣会社の契約が切れ、会社との直契約になるようです。解雇になるかっと思ったのですが、正社員扱いではありませんが契約更新で、最長2年間は雇って頂けるような話でした。彼女には15日会社から中国語で説明があるようです。
この話を彼女に伝えると、流石に安堵の表情を浮かべました。しかし、その後表情を曇らせ、「私、疲れたので3月中国に帰ります。何日に帰るかは判らない」というのです。
「いよいよお金が少し貯まったので、逃亡か?」と勘ぐるが言えない。(^^ゞ「派遣会社の人もいい条件で雇ってくれるので、長期休暇は5月の連休とか夏休みに有給をくっ付けて取ったほうが良いよって言っていたよ」と伝えると、顔を赤くして紙に文字を書きながら「あなたのその言い方 これ」 “圧力的” 3文字漢字を書いて、席を立って行ってしまいました。昨年は帰国しなかった事、知り合いの中国人が毎年帰国している話などを聞くと、帰国の思いは益々募ることは容易に想像できます。新たな難問が出現といったところですか?冷静さが戻って、継続に、前向きになってくれることを期待し、祈るのみです。\(◎o◎)/!
 文化の違いを乗り越え、ここまで楽しくもあり、苦しくもありました。丸2年を日本で暮らしした二人の歴史に厭しさ、さえ感じる今日この頃ですが、今後どうなることでしょう。
追伸 2世は、コウノトリのご機嫌が麗しくなくまだです。続く
続く

暮らし編
本ブログの2005年12月15日の「金を買いに行こうかな」に書いたことが正に現実となり、経済は最悪のシナリオに進み出しました。3月以降の企業の業績悪化と倒産増加が懸念されます。世の中の仕組みが変わる変換点に差し掛かっている気さえします。経済の悪化に伴い当クラブの会員の減少にも影響を与えることが予想されますが、活発に格安で結果を残し、活動してまいりますのでクラブサポーターとして変わらぬご支援宜しくお願い致します。
そんな昨今、個人的に今年トライしたいことは、野菜を自家栽培することですかね(食べる米は自分で作っています)。農家の長男ですがこと畑はまったくやっておらず、野菜作りの経験は皆無です。 草取りの大変さ、取れすぎたときの処理、店頭に並んだ野菜の綺麗さ等、親が苦労しているのを見ているのでどうも気が乗りませんでした。
しかし、今後のやばーい経済状況では食料の確保はとても重要になってきます(マジ 失業者が溢れると思いますよ)。春からは少し性根を入れて、美味しい野菜ができるような人に成長したいですね。できたら楽しみながら。
昨年からの思いなのですが、作ろうとしている畑は、昨年は何も作っておらず伸びた草は、草刈機で数回刈っただけの状態なのです。土造りと言った準備もいっさいせず私らしいスタートをきってみます。でもこだわった作り方をしたいですね。
たとえば、永田農法 EM農法とかに興味を持っています。
特に永田農法は(永田照喜治が創始した農法である。現在の農法と違って必要最小限の水と肥料で作物を育てることが特色であり、「断食農法」、「スパルタ農法」、「緑健農法」、「ルーツ農法」など様々な呼び名がある)痩せている我が畑にぴったりなのかも知れない。
続く


異国の女性を嫁に貰って? ハロー! ワーク編
ハロー! ワーク編
嫁は今、朝5:30に起きています。
「ナニ?」って感じでしょ。
そう、嫁は4月から仕事を始めました。
日本語のまだ、分からないことが多い彼女にとって正社員になることは難しいし、先ずは日本の仕事を勉強してもらうことが大事かと思い、当クラブでお世話になっている人材派遣会社さんに
面倒をみてもらうことになりました。
 それまで、朝ゆっくり寝ていた生活が激変。
 朝、6時に起きてマイカーで飯島の某会社に出勤し始めたのでした。
彼女が、作業着・作業靴を履いて仕事を始めた記念日。
「日本人、真面目や。 前、私が勤めた食品会社(マシュマロを加工していた)話が自由にできたし、たまにはマシュマロを食べながら仕事をしていました。」
「今の仕事、腕が痛くなります。」と言ってしきりに、マッサージを求める。
「アーア、旦那さんがお金持ちなら……」と言ってため息をつきます。「こんなはずじゃなかった」言わんばかりの素振りを見せます。俺は「お金は無いけど….愛はあるよって、手紙に書いたはず。この顔は、お金持ちの顔には見えないだろう」って言ってみるが相手にされません。
この会社は8日間勤めて、今度は、辰野の精密機器製造会社へ。時給が1050円で大企業です。
7:05頃家を出て、駒ヶ根までマイカーで行き、派遣会社のバスで中央道を経由して会社へ送迎してもらいます。
仕事の内容は、クリーンルーム内の検査の仕事です。無塵服を着ての作業がとても最初は嫌だったようです。「顔しか出ていません。マスクを掛けて暑くて仕方ありません」と言って、鼻を赤くして帰ってきました。私が、「ワンちゃんは、男の人にもてそうだから気をつけてよ」って言うと。「鼻と、目しか出ていないのに。誰わかりますか?」と一蹴されました。
 暫くして、中国人の職場友達ができたみたいで、とても休憩時間のお喋りが楽しいようでした。この頃から、彼女らに影響されたのか自分でお弁当を作っていくようになったのです。2段の弁当箱をどこから買ってきた彼女は、母、妹に見せて「な、これかわいいでしょ」とご満悦。
それで、また、彼女が起きる時間が30分早くなり5:30になったのです。どんな、弁当を作っていくのかなーと思ったら、一日目は焼きうどん風なものを詰めていきました。チャーハンを詰めたりして、日本人が考えないような弁当を作っていきます。最近は、白いご飯もつめていきますが.....。見た目は綺麗ですが、弁当箱が隙間だらけで、斜めにしたらグチャグチャになっているのではないか余計な心配をしている訳です。
今週からは、また、違う会社行っています。この会社には作業着(彼女は嫌なようですが)で出通勤しています。彼女が作業着で車に乗っていくのを見ると「変わったなー」としばし物思いにふけってしまいます。
しかし、一見、順調にいっているような私達ですが、日中戦争の真っ只中でした。免許も取れて仕事を始めた彼女を以前ほど時間をかけて、見てやらなかったら、ある夜爆発しました。その日以来、私たちは会話無し夫婦となっていたのでした(約1ヶ月)。また、4月の初に彼女は新車を駐車場で擦ってしまったり、災難も降りかかってきました。しかし、1週間前間から以前の私に戻ることができました。それは、ある法則を実験したからでした。それは「ヒ・ミ・ツ」です。
つまらない、近況報告でした。
異国の女性を嫁に貰って ? 白いきれいな車、編
「何や、古い車 私、好きではありません。 形一番。 白か銀色できれいな車がいい 」
ご無沙汰しています。久々の更新です。ご報告が遅れましたが、嫁は終了検定の技能・学科試験を合格し2月の中旬には免許を手にしていました。終了検定は1回で合格する進歩を見せていました。彼女はお母さんが中学校時代に病死した為、中学は卒業していません。経済的理由か学業が嫌いか、中退です。彼女を見ていると、学歴は無くても生活力・知恵には私も驚かされることがあります。苦労して、免許を手にした日、彼女はそれを宝物のように扱っていました。家族もその事が嬉しくささやかな鍋パーティーをしました。
 さて、免許を手にした彼女は、暫くの間、重圧から解放され家でくつろいでいましたが、しだいに物足りなさから「車はいつですか。 仕事はありませんか」と次の課題を私に提示して来ました。
 私とて、今の中古のステップワゴンに6年も乗っていて、車検が目前に迫ってきているのに、他人(?)の車の心配をする金銭的・時間的余裕も無いのに…. 次々に問題は迫ってくるなという心境。免許があるなら当然、車が要るという現実は分かります。
そこで、交渉です。「俺も、妹も最初の車は擦ったり、ぶつけたりするので中古車を買いました。それから、何年かして新車に乗りました。あなたもそうした方がいい」と話し、理解を求めました。その答えが冒頭の発言です。中国から来た新妻は「ケチ はるばる中国から来ているのだから新車だ」と言いたげな発言を繰り返すのです。中国では車は日本より少し価格が高く、3万円程度の月収では庶民には今のところ高嶺の花なのだから、車に乗れるだけでもOkじゃないかと思うが……。 交渉は1ヶ月程度、暗礁にのりあげていました。
 3月下旬の暖かな日曜日。彼女は得意のプチ家出をしました。11:30頃散歩に黙って出かけたのでした。不覚にも(?)、久々の休日でゆっくりベッド休んでいた時のできごとでした。昼を過ぎ、1時間・2時間しても帰ってきません。携帯電話をかけても1度出たものの無言で切れ、そのあとは繋がらない状態。何やら不吉な予感がして、クローゼットを見るといい服が1つもありません。「家出か…… よくある中国人妻の逃亡か….」と思う。
財布と免許書はある。 「あんなに、苦労をしてとった免許を忘れるはずがない。違うか……」と思い直す。葛藤して3時間。用事から帰った、妹が携帯をかけると繋がった。「お姉さん、今公園。遊びや」と言う。車の練習で行った公園にいるというのである。結構遠いところまで歩いて行ったものである。妹が車で迎えに行くと、悪びれた様子もなく、日焼けで真っ赤な顔をして 「また、行きますよ」と意味深な笑顔を返す。服は最近買った、旅行トランクに入ったままであることが、のち判明した。
根負けした私は、資金調達にめどをつけ、少しでも価格の安い、軽・新古車の順で話を迫るが形一番の彼女は「トヨタ の ヴィッツ」がお気に入りで譲らない。
形・色はいいが、めちゃくちゃ性能が悪い車に乗せようかとも思ってしまったが、交渉ごとが弱い私は彼女が運転する、白のヴィッツの横になぜか乗っている。
 さて、車を手にした彼女の行動範囲は広がり、買い物にドライブに翼が生えたように活動を始めましたが、正直なれない道での事故に心配はつきませんが……。彼女はそんな心配をよそに「大丈夫や…. それより早く仕事見つけて下さい」と早くも次の目標に突進しようとしています。
異国の女性を嫁に貰って ? 快挙編A
嫁が運転免許取得にチャレンジしていることはお伝えしました。
昨年の11月末にからの挑戦になります。自動車の知識がまったく無く、日本語の読み書きの勉強も1年経っていない彼女にとって全部が未知との遭遇だったと思います。
特に学科テストには、苦労がありました。日本語のもつ難解な意味・文末のひっかけ表現等。
嫁に「これ意味は?」と聞かれたても。「エーと。だいたい○□△×...という意味や」。日本語を説明するのは難しいですね。 道路標識も新しい表示が増えていたりして、意味があやふやになっています。みごとに忘れています。彼女は問題集の問題を読んで私に回答を求めますが。正解率が低い。嫁は嬉しそうに「本当に試験受かりましたか?」と尋ねる。「今は、年とったから頭悪い。若い時は簡単に取れました。取ってしまえばOKや」と危ない発言を何度発してしまったことやら。
第一番の難関は第一段階の学科講習後、効果と称する50問のテストでした。本来は30分で終了ですが特別の配慮をしてくれたのでしょう。90分かけそれを終えました。結果は合格でした。本当に必死に問題集を勉強はしていましたからその甲斐あったのでしょう。
第二の難関はいよいよ車の運転です。車の知識がまったくない彼女に車を動かすことができるか? 初めて車を教習所で運転した彼女は「とても面白かった。ハンドルが安定しないって言われました」と興奮ぎみに話す。私は「怖くなかったのか」と聞く。「おもしろいや」と語る。そして「練習したい 広いところ有りますか」とも言う。いやに積極的であった。熱意に押され、極秘に特別練習を空き地で行った。初めは、ハンドルの戻し加減がままならず、空き地隅の木材に、タイヤを乗り上げタイヤをパンクさせてしまった。「あなたの教え方が悪い」と彼女は気にやむ様子も無く、あっさりした態度をとる。その後も、教習所と極秘教習の成果がありめきめき運転は旨くなってきました。
第三の難関は仮免取得でした。実地テストでは上がったらしく、アクセルとブレーキを間違えて踏んでしまい、不合格。その日は少し落ち込んでいましたね。翌日すぐに再チャレンジ 今度はみごと合格。そして学科試験。ここでは30分厳格なテストが行われました。彼女は50問中、26問しか解けず撃沈。「問題の意味分かるに時間かかります、中国 テスト 30分の短いのありません」と言って時間の短さを怒っていました。それでも彼女は問題集を必死になって線を引き・読み・付箋を張り時間内にできるよう努力していました。その頃、顔に吹き出物少しできた為 「どうした、ここ」と聞くと「もちろん、ストレス」と言って問題集とにらめっこしていたのが印象的でした。そして、再トライ 76点。 再々 トライ 86点。 時は既に年末になっていました。私も「やっぱり 日本人と同じテストを合格するのは難しいな」と想像通りの展開になって来たなと思いました。教習所の方からは「少し勉強の時間を置いてから、受けたほうがいいと思います。お金がかかりますから、こちらの問題集も見てください」と新たな問題集を渡されました。それでも彼女は「正月前に合格しないと 正月気持ちチョッと重い感じ」といい問題集を繰り返し勉強していました。そして12月26日4回目の試験に挑戦しました。15時ころ職場に携帯が鳴り「だめやー 89点 落ちました また がんばります」という。「惜しい あと1点か・・・」思わず叫んでいました。仕事が終わり自宅に着くと、やけに母・妹・嫁がニコニコしています。妹が「王さん 合格」 私は思わず「うそ ホント?」と聞き直しました。 嫁は「もちろん これ仮免許 96点でした」と偉そうな態度と笑顔を向けた。 「旦那にありがとう」の一言欲しいなとも思いながらも、久しぶりに嬉しい思いで胸が熱くなりました。・・・・続く
「カッリ・カッリ」
この音は、スイカの種のお菓子(中国は一般的お菓子・ミルクと塩味が混在・香ばしい味がする・暇つぶしに食べる)を嫁が器用に歯で噛み(殻を割って)、種の中央部分を食べている音です。里帰りの前に「心配ですか…? 私はそんな悪い女ではありません」と言っていたことは嘘ではなかったようです
ご報告が遅れてすみません。嫁は無事帰って来ました。たくさんの土産を携えて。今、家の棚は強烈な中国料理の香辛料の匂いが充満しています。
旅行カバンが帰路の途中で破損するほどの、たくさんの食材を詰めて彼女はスッキリした顔で戻ってまいりました。彼女が日本に来てからの口癖は「日本料理は美味しくない・味薄い・・・」ということです。彼女は日本の家族に美味しい中国料理を、振舞う為にたくさんの食材を誂えたのか、自分の栄養を確保する為なのか、真相は藪の中です。
 中国の里帰りはさぞかし、楽しかったのでしょう。上海では、多くの人に会い、料理をもてなしたみたいです。前は苦手なカラオケにもチャレンジしたようなことを言っていました。彼女の実家(河南省)の家族や家の中の様子を、初めて写真で見せてもらいました。
彼女の家の中は広くきれいな作りでした。もっとも、彼女が日本の我が家の写真を撮っていたところを見ると、薄型テレビや食器洗い機やIH調理機など比較的新しくきれいな家電や場所を写していたところを想像すると中国の実家でもそんな感じで撮ってきたのでしょうか?

 帰って来た嫁は、早速、誂えた香辛料を使って食べた事も無いような料理を作って、家族に出してくれました。日本では経験の無い味に、どの料理も最初の一口は違和感を覚えますが徐々に美味しくなり、最後には癖になるのが不思議です。
 
さて、そんな新婚生活もいいことばかりではありません。近頃、誕生日のプレゼントにご希望の物をあげなかったのが原因なのか、このところかまってあげないのが悪いのか、何か怒っていて話をしません。例によって、母と妹とだけ話をするという手法をとっています。
気の小さい私なんか3日も話ができない状況が続けば、ストレスでカリカリしてきます。日本人の同居の嫁さんも普通にすることでしょか?先日のある飲み会で、あるお母さんが「私も良く使う手ですよ」と言っていましたが…。 勉強不足です、分かりません女性心理….(^^ゞ

天真爛漫な嫁が今チャレンジしていることは、自動車の運転免許の取得です。まだ、日本語の読み書きもままならない彼女にとって、まさに冒険です。
「車に乗れるようになりたい」と強く思っているのです。我が家の立地条件を考えると必須アイテムかもしれませんけど。中国での取得のほうが容易で費用も安いのですが、国際免許の更新に毎年帰国(更新に3ヶ月かかる)しなくてならないようです。日本の生活にも慣れ、日本語の勉強だけでは物足りなさを感じさせる今、外の人との交流・社会常識も身につけてもらう為にも思いきって、トライさせてみることにしました。
「何やこれ….日本ほんとうにわからない….」と今、嫁が学科の問題集を見てぼやいています!さて、どうなることでしょう?
異国の女性を嫁に貰って4
異国の女性を嫁に貰って 4
 久々の更新です。今日は、嫁は中国で何をしているやら?
「えー 出って行ってしまったの? !」なんて言う声が、皆さんから聞こえそうですが・・・・。
里帰りをしています。10月9日から29日まで。
滞在先は6年暮らしていた上海と実家のある河南省ですが、、、?
(Sコーチは「返って来ませんよ」と脅かします)
本来は、来年の3月の予定だったのですが・・・・
 3月は寒いし、飛行機代も高い。10月は過ごしやすく一番いいと申しまして チケットも比較的安いし OKを出してしまいました。
 日本に来て半年、日本語の会話は上達しました。家族の間では殆ど困りません。週2回の日本語教室にも真面目に通い、真面目に勉強しています。部屋の掃除・料理(野菜中心の中華)も良くやってくれていますが、家の庭の草取りはまったくしません。
 2ヶ月位たった頃、ホームシック状態になり、とても元気が無くなった時期がありました。後から聞くと 「家の周りがとても静かで、上海の活気に満ちた生活が恋しくなった。 中国人は夜遅くまで出歩きお茶を飲みながら遊ぶ」そんな生活と環境が大きく変化したことのギャップに疲れが出てきたのでした。その時、困った私は中国の家族と気軽に話ができる環境ができればいいと思い、パソコンを使いSkype(スカイプ インタネット電話 無料で高音質・高画像の話ができます)に加入しました。これを入れて話ができる環境を整えてから徐々に元気になっていきました。それにしても中国人どうしの会話はリーベンレン(日本人)が聞くと喧嘩しているくらい騒々しく聞こえますね?
 9月頃、プチ家出もありました。2,3日私と些細なことで喧嘩となり口を聞かない状態が続いていた時のこと(母と妹とは会話をする)深夜 目を覚ますとベッドにいません。家中さがしてもいないのです。「家出か?」喧嘩していた時期だけに。慌てて外を探してもいない。車で駒ヶ根の街の方まで探しに行ってしまいましが見つかりません。意気消沈して帰ると嫁はベッドで寝ていました。母に聞くと「お前が車で出て行くと、玄関から直ぐ入ってきて。ニコニコしながら、すみませんと言って2階に上がって行った」というのです。私の行動は知っていたようです。ドラマが好きな彼女らしい行動だなと思いました。
 母と妹とは想像以上にうまくいっていますが、今後のことは判りません。
この間の懇親会の時にも話題になりましたが、2年生のお母さんでさえ「宮田村に来たとき 知らない人ばかりで いやで、いやで 寂しくて3年位、泣いていました。今は好きですけど」と2,3人の方が言っていました。家は駒ヶ根の田舎ですし、まして文化の違う異国。それを考えると二人の現状は彼女が良く使う「まーまー」の状況というところではないでしょうか?
来週の月曜日には返ってくる予定ですが、空港で会えないとこのシリーズも終わってしまいます。連載が続くようであれは中国のみやげ話でも……(^^ゞ  (土産はシルクのパジャマかな)
異国の女性を嫁に貰って 3
白い花を食べた!

「あの花、食べれます」と彼女が車窓から見える、花を指した。天竜川の中にある木に咲く白い花を言っている。「中国人は何でも食べるんだなー」といいながら私は運転していた。大久保の赤い橋付近でまた、「美味しいよ。あれ」と言い出した。美味しいと聞けば試して見たい気分になった。車から降り、彼女と道の脇にある白い花を摘んだ。他の車は「いったいあの二人は何を取っているのだろう」と思ったに違いない。彼女は花の香りを嗅ぎ確かな確信を持ったようだ。10年前によく食べていた花を思い出したのだ。私は、この花が何と言う名前かも知らないし、とうてい美味しいとは思えなかった。ビーニル袋いっぱいになった花を持って彼女は「OK」と満足そうに笑った。
家に帰ると、花の正体はアカシアの花であることを母から聞かされた。母も「アカシヤの花は食べれるというのは聞いたことはあるが、どうやって食べていいのかは知らない」との事。

そして、彼女の調理が始まった。丁寧に洗い、花のつぼみをの所を選んで1つずつ離す、そして水を加え小麦粉をまぶして塩を少々ふる。から揚げを作る感じで花が小麦粉に包まれている。これを、彼女は蒸したのです。暫く蒸すと半透明になって餅のような様子になってきました。彼女は熱々のそれを取り出し、一味とごま油を混ぜ仕上げました。結構美味しそうな匂いがしていました。

母と妹が興味津々で箸を伸ばし、口に運ぶ「おいしい・・・・ 食べたこと無い味だ」といってパクパクしています。暫く様子を見て私も試食しました。 花自体の味は最後の方でほのかにしますが、ごま油の香りと餅のような食感が食欲をそそりました。彼女もご満悦な表情をしていました。恐るべし、中国人。わが嫁といったところでしょうか!?

アカシアの花は今が旬です。気をつけて見るといっぱい樹生しています。皆さんも一度試して見ては・・・(てんぷらも良いみたいです)
異国の女性を嫁に貰って 2
我が嫁は、今日も元気で鏡を見ています。
嫁が来て、早いもので2ヶ月が経過しようとしています。日本語の単語も確実に増え、感情表現も少しずつ豊かになってきました。最近は、私のことを名前で呼ぶことは少なく、「日本人」・「何、日本人」と呼びます。私が対中国を意識した表現を初期の頃、使ったことが原因なのでしょうか?風習に、もう一つ納得できない、表現として私を呼ぶのでしょうか。だんだん同居の母、妹の前でも使うので、直してもらいたく彼女を、語呂が良い「ワン(王)ちゃん」と呼び始めたところ彼女も「フミヒロ チャン」とまーまーの表現で呼んでくれています。
 良くしたもので、言葉は通じない部分はあるにしても、今では意思の疎通にはほとんど困りません。とりあえず、女同士仲が良いのでとても助かっています。
 
料理、掃除は苦手で、「できない」とぼけたことを言っていた彼女ですが(「セレブ気取りで嫁に来たのかい」とあっせていた私)、
だんだん、家事の実力も垣間見られるようになってきました。
 彼女を、見ていて驚いたことは
洗濯を、手でする(中国の女性は下着類を手洗いするのは普通だそうです)ことです。洗濯機は繊維をいためるので手で洗うというのです。日本では見られない光景を目にしてしまい驚きでした。最近、ようやく一部を洗濯機で洗っていますが、お気に入りのセーターが1枚洗濯機でほつれ、獲得した日本の洗濯機の信頼も揺らいでいます。毎日、手洗いしている彼女の姿を見ると感動すら覚えます。ただ、「水道代がかかるよなー」。
 苦手と聞いていた料理も、野菜を素材にしたものがほとんどですが、水餃子、チャーハン、スープ、めん類、炒め物の味はとても美味しいです。
始めは、外食が多いので包丁も使えないのでは、と思っておりましたが、器用に包丁を使い丁寧に素材を切り、みごとにIHヒーターを使いこなしています。以外でした。
 掃除のほうも、私たちの部屋は頻繁に掃除してくれているようで、ベッドのシーツ交換も小まめに行ってくれ、生まれてから一番きれいな環境に居させてもらっています(私が特に不精なので)。
 暮らしてわかることは、彼女はとにかく形・色・きれいな物が好きで、(その彼女が、なぜ俺を夫としたかは最大のミステリィー)こだわりが強いことです。
前の仕事柄、顔の手入れは非常に熱心で、日本の化粧品の研究には時間をさいています。そんな彼女の悩みは「日本の化粧品を使っていたら顔が黄色くなった」ということです。
私の中のサタンは「顔の擦りすぎだ!」とそっと囁いています。
続く
異国の女性を嫁に貰って 1
 4月13日の披露宴、皆様には大変お世話になりました。お蔭様で楽しいパーティーを開催することができました。今朝もまだ一緒です御安心下さい。
正直、この日が迎えられたことで一安心しております。
この日までの 不安は 
1.    彼女が日本に来る気が変わらないか(年の差に違和感を感じないか)?
2.    ことばの問題(家族とうまくコミュユケーションがとれるか)
3.    食事の問題 彼女は肉がまったく食べられない。生魚は食べる風習がないこと(ただし蒸・煮魚は好物)。塩辛いものが好物なこと等
4.    ホームシック・文化の違いに慣れるか

等、さまざまな事を考えましたが、そんな不安をよそに妻は今日もマイペース、我が家でリーダーシップさえ発揮し始めています。
彼女曰く 「女は家、元気でうるさく・外では静か」と言ってとにかく、にぎやかで日中文化の違い・私のアホさを唱え笑わせてくれます。

そんな妻ですが
 3月19日 セントレア空港に来日し、知多半島のホテルに1泊したのですが、ホテルの夕食の海鮮料理がまったく食べられず、不機嫌になってしまいました。刺身は食べられないのは知っていましたが、それ以外の者は何か気に入った物が有る筈だと考えていたのが甘い判断でした。この日の海鮮は正直、日本人の若者でも好き嫌いの出るものが多かった様に思われました。少し食べては、直ぐに吐き出し、お茶で口をゆすぐ彼女の顔は今でも忘れられません。悲痛な声で「プーヨン・いらない」と言って沈んだ顔をしていました。
第一の危機を感じた、私はホテル内の自販機の焼きおにぎり・焼きそばに目を留め・早速購入し・彼女に食べさせると「これ美味しい」「何ですか」といってパッケージの字を読んでいました。私は得意げに「焼きそば・焼きおにぎり 日本の自販機・料理 世界でNo.1」とか分けのわからないことを叫んでいたのを記憶しています。ここにあったか彼女が食べられる日本料理がといった感じでした。また、「安く済んでよかったー」とも私の中のサタンはささやいていました。
 続く---
恥ずかしながら、重要なお知らせです。
1年ぶりの更新になります。
 ブログのタイトル通り、気まぐれな更新で失礼致します。
風の噂では届いているとは思いますが、私、昨年の10月結婚式を行い、11月に入籍致しました。
愛の伝道師は、クラブOBのHお父さんと友人のR(中国の女性)さんでした。
昨年の3月 中国で仕事をされているHさんから、息子さんがクラブを卒業するに当たってお礼のメールを頂きました。その際に私が洒落で「そちらにはいい娘さん いますか?」と書いていたらしいのです。これが全てのきっかけでした。Hさんから、私と会うことを希望している、2名のリストを頂き「中国人は待つことが嫌いです」という半ば脅しのメールをもらい、思案の末(悩んでる年ではないなと感じ)9月、中国行きを決意しました。道中の機内で、日頃「モンゴルの女性と結婚したい」と言っていた冗談が本当になってしまうかも知れないと思いながら、言霊のパワーを微妙に感じていました。私が、モンゴルの女性を出した訳はアジアながら遠い異国・素朴な人柄・たくましさ・家族の和といった部分に漠然とした、希望があっての発言だったように思えます。
上海に着き、現地で6名の女性と見合いをしました。ハードな見合いスケジュールでしたが、残念ながら双方の条件にあった人が見つからなかったと思っていたら、4番目の子がOKを出してくれたようでした。この子は、Rさんと私の方を見て心配そうに話していたのが印象的でした。後から聞いた話ですが「私の顔が黒く病気ではないか? 子供が黒かったらどうしよう」と心配していたらしいのです。気持ちは分かります。そういえばモンゴル人の前は色の白いロシア人との結婚に憧れていました(私も、日光にさらされていないところは色白ですよ)。Rさんの説明に納得したのか、彼女の連れ(姉)に進められたのか、私とのデートをOKしてくれました。
縁あって結婚することになった彼女の名前は 王東方(ワン トンワン) ?4歳(河南省生まれで上海に在住)と言います。昔のお見合いの感覚と同じです。お互いのことは良くわからないけど、良さそうだという感覚です。
言葉・文化の異なり、我が家が田舎であることを考えると、まさに「えらい所・えらい人に嫁いで来てしまった」ようで気の毒ですが、なんとか幸せにしたいと思っております。
3月19日にいよいよ入国します。未知との遭遇です。みなさんご支援下さい。
取り急ぎご報告まで。
 

交換日記

2006年3月2日
交換日記
交換日記
メールやチャットが発達した今、この言葉は死語に近い。

昨年12月S君が21歳という若さで年上の奥さんと結婚をした。
うらやましい限りである!?
なじみのラーメン屋で社会人サッカーチームの面々と飲んでいた時、S君の結婚式の話題から変な方向に話が向かった。
私の丸秘の扉を開いてしまった。
「俺、高校の時、彼女と交換日記を7冊もしていたんだ」と自慢げに話してしまった。
面々は「ウッソ!」と疑いのリアックションを示した。

淡い思い出である。高校のグランドで咲いた恋であった。部活の後輩が好きだった彼女が俺を好きだということから始まった恋である。
当時はやっていた交換日記を彼女から提案され((*^_^*))、1日おきでせっせとノートに思いを綴ったものである。
熱しやすい私は、彼女がノート半分書けば1ページをという感じで、内容よりも書く量で上にいくことを快感と感じていた。
今はその交換日記は失恋の末、灰と化したが今、当時の日記を読めば内容の臭さと幼稚な愛情表現で失望・失禁する事だろう。
しかし、この体験から文章を書くことが嫌いではなくなった。

若い時は刺激を受ける。その彼女の前に好きになった人がすごい字が綺麗な人だった。そこで私は直ちにその子に見習ってペン習字を始めた。この時、字をきれいに見せるというノウハウを学んだ。たとえば、横書きは丸文字で書くとバランスがとれ、縦書きは文字を縦長に書くと大人っぽく見える。へんとつくりの大きさのバランスとか。今でもよそ行きの字を書く時には役立っている。そんな訳で達筆の人や、文章表現の上手い人を羨望の眼差しで見てしまう。

さて、この話をどうまとめましょう。
若い頃のチャレンジは何でも報われるということ。
今ラブレターを書いたら上手くなっているような期待があるということだろうか。
ここだけの話だが私は独身である。

 
スポーツを通じて何を学ぶか!
書店をフラフラしていると「コーチ」 という本が目に入った。(ランダムハウス講談社 マイケル・ルイス (著)中山 宥(訳))とても薄い1時間程度で読める本だ。
マイケル・ルイスは現代アメリカを代表するベストセラー・ノンフィクション作家らしい。

その、著者がお世話になった野球のコーチの話である。
著者の元に出身高校の卒業生から「母校の屋内運動場を改築して、指導してくれたコーチの名前をつけよう」という寄付金募集の手紙がきた。一方、現在も野球部のコーチを続けている当のフィッツに、現在指導している生徒たちの父親が苦情を殺到させている、という話も伝わってきた。
 興味を引かれた著者は、母校を訪れ、校長から事情を聞くことにした。ここから話が展開する。

フィッツコーチは熱血指導者で勝つまでユニホームを洗わせなかったり、また時には負けると血のにじむようなスライディングの練習を課し、実績を上げて来た名物コーチである。
著者自身も練習をサボって家族とスキーに行ったとき、フィッツコーチに「あいつは、みんなが練習している時にスキーをやっていやがったんだ」とチームメイトに暴露さたり、コーチから言われる言葉からガツンと来るメッセージを受けた。それは
「人生で大切な事は、人生に真正面からぶつかるってこと」 
「人生に真正面からのぞんだときに必ずぶつかる二つの大きな敵(不安と失敗)にどのようにぶつかるかだ」
「グランドでたたきこまれた情熱をほかのすべてのものに注ぎこめば、はるかに充実した人生を送れるのだ」
等、彼の将来にとって大切な礎を学んだのだ。

そんな実績のあるコーチだが
校長の話では、「彼のやり方は何も変わってはいないのに、過保護の傾向が、年々、急速に強まっています。親が生徒に代わって要望を出してきたり、生徒の肩を持って抗議してきたり……」しているらしい。そして
「子供が対する自尊心の扱い方が難しくなった。
最近の子供は、初めからプライドを尊重されている。
叱られた時は、とんでもない侮辱を受けたと感じる。自分のために叱ってくれたという風には頭が回らない」と嘆く。
また、著者は本当に真正面からぶつかることを避けるようになってきた
だから、フィッツのやり方がうまくいかなくなっているとも指摘している。

この本は元々、「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」に掲載された文らしい。たちまち大反響を呼び、映画化も検討されコーチに講演依頼も殺到しているとの事である。

同じコーチ業として、私がこの本を通じて考えたのは以下のようだ。

・子供の本質は変わっていないのだろが、明らかに昔に比べ、環境が恵まれてきている(物質的にも・体を動かさなくてもいい・勉強ができればOK等)。
したがって、「耐える力」が年々落ちてきているような気がする。本質を包む皮が薄くなっているような気がする。ピュアーだがもろい。そんな感じである。
こんな時勢だからこそ、スポーツを通じて困難に向かっていく力(欧米ではライフ・スキルという)をつけてほしいということである。

・私もコーチ業を通じて、人生の中で何らかの良き影響を子供らに与えたい。
・サッカーが好きな子供さんであれば、サッカークラブの中で起きる問題はこれからの人生で起きる問題に比べれば些細な事と捉え、乗り越させるような助言・サポートを父兄の方にして頂きたい。

アメリカでこんな昔風な指導者に、共感が得られていることに驚くが本質がプレーヤー・ファーストであればやり方はいろいろ有るのだろうと妙に感じ入った書物であった。

次回はここの所、マジなテーマが多いので少しソフトな話題で「交換日記」です。

アヒスカと武士道

2006年1月26日
アヒスカと武士道
恥ずかしながらサッカーのコラムである(このブログにはサッカーのことには触れないつもりでした)。
スポニチ記事の金子達二コラムにこんな一節が掲載されていた。
----ブラジル人の考え方に“マランドラージェン”という考え方があるそうだ。
騙した方がエライ、騙された方がバカということらしい。だからサッカーに於いてもマリーシア(ずる賢さ)が要求される。最近ジーコが嘆いているらしい「日本人にはアヒスカがない」と。勝つか負けるか賭けるという意味らしい。ブラジル人なら勝負に出る局面(ゴールに向いシュートに至る)で日本人は安全なこと(パス)を選択してしまう。-------

 なるほど、日本人FWに本物が現れない理由かも知れない。確かにブラジル人はサッカーに向いているかも知れない。
しかし、マランドラージェンという考えは日本人には合わない。なぜならサムライ・武士道の国だからである。
新渡戸稲造『武士道』などで説かれる日本人の「美しい」とされる生き方がDNAにインプットされているからだと思う。
それは、「信実としての誠」、「武を本分とし勇敢さに最大の価値を置くこと」および、「主君、あるいはむしろお家に忠義をつくし、自己を顧みない」という点であった。武を蹴球テクニック或は蹴道・君主お家をチームとすればどうだろう。日本独自のサッカー道がここに生まれないか?そうすることで“サムライ”サッカーはエキサイティングでビューティフルと思わせられるような気がする。
もう一度そんな武士道を日本人として再認識しサッカーに結合させる必要性を感じてしまった。

思えば私も5年前アヒスカに出た。会社を辞め何の保障もないこの仕事を選択したのだ。今思うと正にイチカ・バチカノ賭けだったといえる。多くの皆さんに支えられ、なんとかここまでやってこられました。
日々悪戦苦闘は続いているが、クラブの他事業への展開・グランド作り・子作り等のアヒスカに挑戦する時季が来ている予感がしている。

酵素パワー

2005年12月31日
酵素パワー
洗剤革命
年末、久しぶりに家の大掃除を手伝った。台所のレンジ周りの掃除である。恥ずかしながら、この手のことはすべて母に任せてあるが、如何せん高い所、換気扇・ガスレンジは目に余る汚れが目立ってきた。何年分かの汚れが溜まっているのである。
おもむろに、掃除機で吸うがビクともしない埃。油でコーティングされ動かない。ヘラでかき集め掃除機で吸って何とか、おおまかに回収できた。次は洗浄である。前に買って置いた「洗剤革命」と毛糸のたわしがここでは活躍した。
TVでもおなじみの洗剤革命はにおいもせず、酵素の力でバンバン汚れを落とす(医療器具の洗浄剤として開発された洗剤なので安全性も高い)。頑固な汚れもこの洗剤と毛糸のたわし+私の腕力で見事に綺麗になっていく。レンジ周りのステンレス部もピカピカになり、私の黒い顔もバッチリにやけて写っている。格闘3時間、満足の仕事ぶりである。

酵素風呂
私のお気に入りに「酵素風呂」がある。
私が利用するのは、駒ヶ根のふれあいセンター近くの「ゲンキの泉」です。
(昔、箕輪にあってよく通っていたのですが閉鎖した為、寂しく思っていたところ、駒ヶ根にできてラッキー)
 酵素風呂ってご存じでしょうか?酵素風呂は、砂風呂に似ていますが、中に砂ではなくて、主に檜の木くず(又は米ぬか)が入っています。
 酵素風呂は自然に発熱しています。
 なぜ発熱するのかというと、お風呂の中に有効にはたらく微生物を入れて、発酵させているからなのです。発酵するときに熱がでます。その温度は、60度から70度くらいまでになります。微生物の力はすごいです。入浴は、木綿の湯着を一枚着て入ります。じっくり体の芯から温まり、聞こえてくるモーツワルトの音楽にうっとり気分です。 
微生物は、発酵するときには、酵素を分泌します。この酵素は、いろいろなものを分解するはたらきをします。たとえば、入っている人のお肌についている余分な老廃物を分解してくれます。20分も入っていると汗だくだくですが、サウナ後のような疲労感がなく爽快です。入浴後の体が軽いこと。また、食事がとっても美味しいです。是非一度ためして見てください。
酵素とは
からだの中で起こっている化学反応の触媒(自らは、何の化学変化も受けずに、他の物質の化学反応を起こしたり、早めたりする働き)の役割を果たす、たんぱく質です。
生物のすべては、「細胞」で構成されています。そして、その「細胞」の触媒作用で分解、合成などの変化をしながら生まれかわり、生命の元となる物質をつくりあげていくのです。
よって、酵素がなくなったら・・・??動物も、植物も、すべての生物の生存はストップしてしまうらしいのです。
そんな力を酵素は秘めています。
さて、ここで宮沢賢治風に
私は、地味な存在ではありますが、強力な影響力をもたらす酵素パワーみたいな人になりたい!!

金(ゴールド)を買いに行こうかな?
ここの所、刺激的な本を何冊か読んだ。
一作目は、「日本壊死」船井幸雄・副島隆彦作と言う本だ。
要旨は以下の様である。
・戦後の国際経済システムはブレトンウッズ体制すなわち金・ドル体制を核にスタートした。
・1971年ニクソンショックによって金とドルの交換ができなくなった。
本来ここで金融システムの崩壊が起こるはずだったが、アメリカは巧妙にドル・石油体制に移行させた。
・ここで力を持ったのは世界中の石油を握っているロックフェラー家であった。ロックフェラー家の力で米ドルの信用を支えてきた。
・しかしこのロックフェラー家も4世・5世との間で熾烈な争いが生じている。
・一方ヨーロッパには王家の財務を何百年も担っている、ロスチャイルド家が金を基に力も持っている。
・この両家で静かなる、金と石油の軋轢による戦いが起きている。
・日本の財政赤字は1000兆円になっているが、米の財政赤字は日本の2倍以上あり、各州の赤字入れると、計算不能になるほど膨らんでいるらしい。
・以上のことから近いうちにドルの崩壊が起こることを予言している。このとき1ドル60円時代の到来が来る。
・ペーパーマネーの経済は崩壊し、実物資材(金、土地、石油、穀物)を担保とする通貨体制に移行する。
・脱米入亜の可能性・次世代を作るエゴの無い、新しい人達の登場に期待を寄せている。

いやいや、驚いたのはこの世を巧妙に計画している支配者がいるということである。彼らは政治家もコントロールしている。しかし、そろそろ彼らのエゴも許されなくなってきているらしい。
思えば、戦後の日本は彼らの書いたシナリオの中で踊らされていただけなのかも知れない。
郵政の民営化もその一端であるような気がする。
さて、今の資本主義の経済が崩れるとなるとお金は金(ゴールド)・ユーロに換えておいた方がいいのかなと要らぬ心配をしてしまった。厳しい時代が到来し、土地・山・畑が大切な時代が来るかもしれない。
もう、一冊の本の紹介は次回に続く。

蜂と戯れる!

2005年11月10日
蜂と戯れる!
本日(9日)、地蜂(クロスズメバチ)の巣をゲットした。
先ほど懐かしく、香ばしい味を久しぶりに堪能した。

この巣は先月中旬ごろ、Sさんが我が家の田圃の草刈中、偶然見つけてくれたものである。蜂がブンブン通いその蜂の多さから、巣は大きい予感を漂わせていた。
さて昔、小学校時代「蜂追い」なるものは経験しているが自分でその巣をとった経験はない。
見つけてくれたSさんも無いらしい。そういえばAさん(シンガーソングライター)が「土手草を刈っていて地蜂に刺され、近所のおじさんにとってもらった」と話していたことを思い出した。
早速、Aさんに電話をして様子を聞いたが、詳しい採取の方法は分らなかったが、煙幕の売っている店の情報提供があったのはありがたかった。
あまり先にとるのを延ばすと、蜂が巣立ってしまい空になってしまうと焦るが、自分ではなかなかとる気にはならない。仏教徒らしく殺生はしない方が良いかなという思いと、蜂に刺されボコボコに腫れ上がる顔を思い浮かべてしまうからだ。

 本日、意を決してとる事にした。
まずはインターネットで地蜂の採り方を検索し、服装・用意すべき道具の準備にとりかかった。
煙幕はあわや屋さんで1本63円(いやに安く感動した)を3本購入し、皮手袋をコメリで調達。完全防備(上下カッパ・長靴・顔に網)でたった一人で勇敢に現場に向かった。
現場では相変わらず、勢い良く蜂が入り口から出入りしている。
煙幕導火線に火を付け、慌てて入り口に差し込む。しかし、穴が大きいので蜂が結構多く外に出てくる。あたり一面に蜂が群がって舞っていた。こんな状態では彼らに刺されてしまうのではないかと不安がよぎる。しかし、ここまでして帰るのはプライドが許さない。
覚悟を決め皮手で周辺を掘り出したがなかなか見つからない。ようやく15cm掘った付近で巣らしき物を発見した。だが、周りの土が固く上手く掘れない。「スコップがいるな!」と思うが持参していない。ネットWEBでは手で掘っていた姿を見たため道具は用意していかなかった。電光石火の如く家までとりに行き現場へ向かう。彼らが睡眠(ショック)から覚めたのか更に舞っている蜂の数が多い。今度こそ刺されそうと思うが、気持ちはハイ。スコップで強引に掘っていく(女性へのアプローチはおくて晩熟なのに)ウヨウヨ蜂が出てくる。巣の全体が見えてきたがどうやって持ち上げたら良いかが分らない。簡単な力で壊れてしまうからだ。また、ここでも強引に皮手で取りに行く。ミシミシと音をたて一部破損していくが仕方ない。苦戦5分ようやく巣の捕集に成功した。袋にはずっしり重い6段位があった。こうして地蜂との格闘は不思議に、どこも刺される事はなく終わった。

 
家に帰ると母が嬉しそうに「うわー」と歓喜の声をあげ、蜂の子をせっせと取り出し、蜂は大量でボール一杯になった。蜂は上手に甘辛煮にされた。久しぶりに野生の血が騒いだ一日であった。しかし、仏教徒としては反省の日でもある。

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